この度、8月の佐久での合宿で稽古を担当させていただいたことは、私にとって新たな発見をもたらし、とても有意義なものとなりました。
私の稽古では、いくつかのキーワードを用いました。
まず始めに、「真剣」ということに触れました。「真剣」という言葉には、本気であることの他に、本当の刀という意味もあります。そして、切れる刀の様に嘘のない本当の稽古を行うこと、「真剣」な稽古を行うことでこそ、本当に楽しく愉快な稽古を行えると、私は考えています。「真剣」は、真面目とか、硬いとか、激しいということとは同義ではありません。「真剣」に近い表現として、本気や正確ということが言えるでしょうか。


次に、私の合気道の修行における羅針盤とも言えるものとして、「禅」「武」「美」について触れました。この3つの言葉は、「無心」「捨身」「自然体」と置き換えることもできると考えています。
「禅」とは主に、自らの内面に着目する姿勢のことを私は意図しています。自らの整った状態、静かで安心した状態を知ることを主眼とし、そこからの乱れを違和感として知覚するであろうことも含んでいます。これが極まった状態を「無心」であると考えています。
続いて「武」には、「二(2)つ」の「戈(ほこ)」を「止める」という意味があります。これは「対立する(争う)2者を治める」という意味があると言えます。さらに「そもそも敵をつくらない」これは即ち「無敵」という解釈を私はしています。
では具体的に何をすれば良いのか。そのヒントとして「争うために必要な条件」について考えました。争うために必要な最低条件・・・それは「対立する二者」です。もっとシンプルにすれば「2」です。「2」だから対立が可能なのであり、これが「1」ならば対立が不可能なのです。このことは私にとってとても大きなヒントとなりました。私にとっては既に十年以上も前の気付きですが今でも最大のテーマとなっています。
まず物理的に考えると、2つの肉体を1つの状態にするにはどうするのかを考えました。その方法が「寄りかかり」と「ぶら下がり」です。これは「押す」こと「引っ張る」こととは似て非なるものです。「寄りかかり」「ぶら下がる」ことは自らを支えている意識が主ですが、「押す」「引っ張る」は相手をどうにかして動かしたい意識が主です。「寄りかかり」「ぶら下がり」の感覚は、禅により得た自らと、その外側にある環境とを更に調和し、自己と環境の境界をなくしていくことにつながります(これは禅が本来もっている意味でもありましょうが)。本当に自らを「寄りかかり」「ぶら下がり」の状態にするには、自己を守る感覚を捨て、環境に身を委ねる覚悟が必要です。この覚悟のことを「捨身」と私は呼んでいます。ですので「無心」と「捨身」は同じ根本があり、同時に「禅」と「武」も同様であると考えています。精神的には、「2」を「1」にするために、自己を無くすことで相手のみになり「1」となる発想を持ちました。自己を無くすには、極小にして見えなくするか、極大にして薄くするかの2つがあると考えています。この、自己を無くすことと、「押す」と「寄りかかる」、「引っ張る」と「ぶら下がる」の違いは全体の姿に大きな違いをもたらします。その違いとは「間」です。この「間」には「空間」と「時間」があります、「空間」は距離や位置や姿勢です。「時間」はタイミングやリズムであり、相手との呼吸です。良い間にはメリハリが有り且つ忙しさが無く必然性があり、見るものを納得させる力があります。その説得力が「美」です。
また、そのようなバランスを常に保とうとする直感的でここちの良い気分もやはり「美」であると考えています。また、そのような「美」の状態は構えない状態、ニュートラルな位置を基本としています。これは精神的には「待つ心」「切られる心」のことです。「構える」という姿勢は、何かを予想した状態であり、方向性があり、偏った状態であり、いびつです。「真の構え」とは、予想せず、方向がない「構えない構え」ではないでしょうか。
最後に、もう一度「真剣」ということに戻りたいと思います。
道着が白いのは武士が肌着として来ていた死装束のなごりであるという話を聞いたことがあります。道着を着て道場に立ち向かい合う。この時点において、向かい合った二人は、同じ一つの命を持つ単なる人です。そこには、地位も名誉もありません。もちろん段位も性別もありません。身長や体重も、国も宗教もありません。否が応でも人間が生まれながらに持たされた、逃れられない、捨てることのできない束縛は、「身体と寿命」のみです。これには人それぞれ大小があれど大差はありません。その二人が真剣に向かい合う。自らの「身体と寿命」を差し出して向かい合う。それが道場であると考えています。

どうぞ、
相手に教える前に、自ら学んでください。
相手を見る前に、自らを感じてください。
地位・段位・性別を捨ててください。
体格の大小には、それぞれ、長所短所があることを察してください。

それでももし、相手に何かしてあげたいと思ったなら、それはただ、真剣且つ安全な受けを無心に取り続けることしか私達にはできないのではないでしょうか。それ以外のことは、実は相手にとって邪魔なだけなのではないでしょうか。
合気道が持つ可能性を更に覚醒させるためには、根拠の無い封建的な意識を、言い換えれば、「捨てることのできる束縛」を捨てることが重要なのではないでしょうか。


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